ザ・ベストテン
この番組のすごいところは大きく2つ。ランキングが公平であること。そして、スタジオに来れない歌手のためにロケで中継を行っていたことである。ランキングが公正であることはあまりにも当たり前のことの様だが、これ以前にランキングの上位10曲だけに絞って、その歌手しか出さないテレビ番組は存在しなかった(はず)。それは従来までの芸能プロダクションとの関係などを重視して、曲に明確な指標に基づく順位付けを行うことはある種タブーでもあった。ベストテンはまず何よりもこのタブーに挑戦しようとする。そして、テレビに出ない歌手がランクインしても順位は決していじらないことを当初の企画書でも謳っている。番組の途中に「○○さんはおいでいただけません」と言って、両司会者が詫びるシーンはそのランキングがガチンコであることを裏付ける上で重要なパフォーマンスであった。
そして、スタジオに来れない歌手を中継という形でテレビに出すのも画期的だった。ふつうの歌番組なら予めスケジュールをそれにあわせることができるが、ランクインするかどうか分からない状態で毎週木曜日のスケジュールを空けておくのはかなりリスクが大きい。これでは幾ら番組にステータスがあったとしても、欠席者が増え、番組の存続に大きな影響を与えてしまう。この「追っかけ」という中継スタイルはまさに逆転の発想というか、ランキングを重視し、出演者を維持し、生放送の番組としての要素を生かす上でも重要な手段だったと言える。あるときはコンサート会場、ある時はJRのホームからの中継というのもあった。生放送と言えば、労働基準法の制限で15歳以下のため出演できない歌手もいたねー(具体的な名前は忘れてしまったけれど)。
時期的には家庭用ビデオが普及する以前であったため、ピンクレディーの振りを覚えるために熱心に見た人も多かったはず。また、金曜日の学校では、前日の番組の話題で持ちっきりだったので、クラスのほとんどが番組を見ていたはずである。
ザ・トップテン
日テレ系で長い間続いていた歌番組の「NTV紅白歌のベストテン」はその後、ザ・トップテンという、ランキング形式の歌番組に変貌した。ところが、どこか目新しさが足りないと感じたのはは司会者が前の番組から同じ、堺正章と榊原郁恵であったからに違いない。それに会場は相変わらず渋谷公会堂だったし。きっとスタッフもそのまま同じ人がやっていたに違いない、と思う。
この番組の特筆すべきところは公開番組という所である。会場にはハッピやハチマキ姿の追っかけが見ている。歌っている側としてはスタジオで巧みなカメラアングルで放送されるの(ザ・ベストテンのこと)と実際に観客を前に歌うのではどっちが良いだろうか?。スタジオからの放送ではあまりにもベストテンの二番煎じでしかないため、この点にはこだわっていたのかもしれない。しかし、特筆すべき点はこれだけでしかなかった。
趣向として、ランキングが発表されて、中が電飾ギラギラのエレベータからゲストが下りて登場することになっていた。これはベストテンの回るミラー扉を意識したものだったと思われるが、番組の構成上から考えるとあまりにも無関係な浮いたものでしかなかった。まるで披露宴のゴンドラのような。そして、このエレベータはやがて廃止されてしまった。
この頃の音楽界はアイドルの全盛で実力は二の次の様な時勢であった。この粗製乱造ぶりにより、やがて音楽業界が冬の時代を迎えることとなる。また、人々の音楽に対する嗜好の多様化が脱ランキング指向となり、ランキング重視の音楽番組に影響を与えたと思われる。それは怪物番組とまで言われた、ザ・ベストテンについても例外ではなかった。
夜のヒットスタジオ
「夜ヒット」と呼ばれたこの番組は、昭和43年から始まっていた。芳村真理と、もう一人の司会者として、井上順を思い浮かべる人は多いと思うが、それ以前は前田武彦が司会を務めていた時期がある。また、調べたデータによると、前田武彦の後任が三波伸介だったらしい(私の記憶にはない)。
さて、この番組の特徴はリレー方式で歌を歌いゲストが登場して来る「マイクリレー」にあった。自分の次に出て来るゲストの曲を1フレーズずつぐらい歌い、簡単なコメントを付けて次のゲストにマイクを渡す。これを繰り返し、最後のゲストとなると既に登場を終えたゲスト達は一ヶ所に集まり、最後のゲストの曲にあわせてみんな同じ振り付けで踊っている。そこに、最後の人が自分の持ち歌を歌いながら現れ、1コーラス歌いあげる事になっている。他人の曲だからと歌詞やメロディを間違えるゲストが結構いた。
この番組は月曜の夜10時からフジテレビ系で放送されており、同じ曜日には日テレ系の「NTV紅白歌のベストテン」、「ザ・トップテン」もあって当時の月曜日は歌番組曜日だった。しかし、その後この番組は水曜日の2時間枠に移動し、タイトルも「夜のヒットスタジオDX」と変わったり、司会者も古館伊知郎を起用するなど、何度かのリニューアルを重ねた長寿番組であったが、この番組も音楽冬の時代の到来とともに、ブラウン管から消えてしまった。
やがてブラウン管から歌番組が一斉になくなり、テレビはドラマとバラエティの時代を迎えるに至った。