まず当サイトの最初の記事として、80年代全体をざっと大きく捉えておきたいと思い、80年代の歴代総理について触れておこうと思う。
その就任や退任時の理由などに、当時の社会的な背景などを垣間見ることができるからである。
- 大平正芳
- 1978/12/07~1980/06/12
- 鈴木善幸
- 1980/07/17~1982/11/27
- 中曽根康弘
- 1982/11/27~1987/11/06
- 竹下登
- 1987/11/06~1989/06/03
- 宇野宗佑
- 1989/06/03~1989/08/10
- 海部俊樹
- 1989/08/10~1991/11/15
80年代最初の総理は大平正芳だった。
就任は78年12月。
前任は福田赳夫だったが、自民党総裁選挙の予備選挙で大平が福田に勝利。福田は本選挙を辞退し、自民党総裁・内閣総理大臣に就任した。
任期中の施策で私の記憶にあるのは、「省エネルック」だった。半袖のスーツ姿で、ネクタイも締めている。もちろん、普及することはなかった。その後、羽田総理のときにも「省エネルック」の話題が復活したが、大平総理の方が元祖である。
さて、彼の退陣についてであるが、彼は退陣することなく。現職の総理大臣として急死した。「東京都港区の虎の門病院」とニュースでアナウンサーが発した言葉を私は今でも覚えている。その日の朝のニュースだった。死因は心筋梗塞による心不全と発表された。
折しも、衆参のダブル選挙の時で、弔い合戦なのか、香典票なのか、自民党はこの選挙に圧勝した。
(衆院:284議席、参院:135議席(非改選含む))
初の衆参ダブル選挙だったが、党内抗争の末の「内閣不信任決議」が可決し、衆議院を解散(ハプニング解散)してからのことだった。
憲法70条により、「内閣総理大臣が欠けたとき、(中略)内閣は、総辞職をしなければならない。」ということで、内閣官房長官だった伊東正義が事前指定に基づいて内閣総理大臣臨時代理に就任し、内閣は総辞職となった。
次の総理が決まるまでの約1ヶ月、この内閣総理大臣臨時代理が続いた。
大平総理の死去により、衆参ダブル選挙で圧勝した自民党は、党の最高顧問会議での話し合いで後継総裁として鈴木善幸が選出された。総理としての在任期間は2年余りであるが、次の総裁選挙に出馬しないことで、総理総裁の座を退いている。
あまり印象的な政策などでの記憶はない。
鈴木総理の退陣は「禅譲」などと言われているが、そこで登場したのが、中曽根康弘だった。
「三角大福中」とかつて総理候補とされていた最後の一人だった。
(「三角大福」と言われていた時期もあり)
中曽根政権は5年弱という長期政権になった。印象的だったのは、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係。「不沈空母」発言などの発言もあった。
次期総理総裁として、竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一がニューリーダーと呼ばれていたが、総裁選にあたり、中曽根は竹下登を後継に指名し、他の2名が出馬を取り下げる形で決着がついた。
竹下登の総理在任中に、昭和天皇が崩御し、改元や大喪の儀などが粛々と行われた。さらに、消費税の導入はこの時で、平成元年4月1日のことだった。
彼の総理としての幕引きであるが、それは「リクルート事件」だった。自身への疑惑も浮上するなど、内閣支持率も急落することになった。そして、公表していなかったリクルート社からの借入金の存在が明らかになり、内閣総辞職に追い込まれた。
総辞職を表明してから実際に総辞職するまでには1ヶ月強の時間があったが、その表明した日(4月25日)、私は新入社員として東京都中央区の兜町周辺を営業実習(飛び込み営業)で回っていたものの、この日は誰も相手にしてくれなかったが、この辞職表明によるものだったと、夕方になって分かったことを記憶している。
竹下登の後を継いだのは宇野宗佑だったが、実に短命だった。在任期間69日は、日本政治史上4番目の短命内閣。
ニューリーダー他、他の有力な後継候補者が軒並み リクルート事件に関与していたことから、消去法とでもいうべき過程を経て、総裁に就任した。派閥の領袖でもなく、党三役の経験もないなど、党内の支持基盤が弱い上に、過去の女性スキャンダルが就任早々に噴出し、参議院選挙で大敗し。責任を取る形で退任した。
リクルート事件後のクリーンなイメージが必要なタイミングながら、女性問題での幕引きとなった。
80年代の最後の年、89年は前述の通り、2人の総理が辞職している。次いで総理になったのは海部俊樹だった。
相変わらず、有力者を避ける形で党内の人選が進められ、総裁選で田中派の支持を得て、総裁に就任。
先の参議院選挙で自民党は大敗し、衆院では自民党が与党でありながら、参院では与野党の逆転があった。首班指名において、衆院は海部を指名したが、参院は土井たか子を指名した。「山が動いた」とはこの時の土井たか子の言葉である。「マドンナ旋風」という言葉が、今となっては懐かしい。
ざっと、これが80年代の総理の変遷である。